〜僕はこんなふうに生きてきた〜 (2002年VER.)
・1971/10/04 pm16:00 建築デザイナー・画家の父、歌人の母の長男として生を受ける。この時父は45歳、母は39歳。
父は共産党党員で政治活動家でもあった。
若い頃から党の活動に身を投じ、皇居に火炎瓶を投げる等の行為で拘留されることしばしば。
小学校の頃に火炎瓶の作り方を教えてもらったことも。。。
僕の誕生直前まで警察及び当局による執拗なレッドパージ(赤狩り)にさらされていた。
要注意人物としてマークされていたのだろう。
父は専修大学卒業後、広告代理店に入社しTV・映画制作の舞台裏で活躍、その後建築業界に転身
商業施設のデザイン・設計の会社を設立する。
熊本県人吉市出身の同郷の画家、宮崎精一氏の弟子として画家としての活動も行っていた。
晩年は仏画を描き、真言宗の僧侶の資格も有していた。共産党から仏画の道へ、、、
唯物史観から唯心論への移行、、、波瀾の人生によって父の中で何かが変わって行ったのだろう。。。
母は歌人、土屋文明氏を師と仰いでいた。生活感のある物悲しい短歌であったと幼心に記憶している。
西日本新聞に作品が多く掲載されていた。
これから書く、僕の苦々しい人生の断片により、僕の手元には父の書いた絵も、母の短歌も、二人の写真すらない。。。
自分の生まれた証すら持たずに人生の荒波を歩いているようだ。寂しく、辛い事だ。
いつの日か、「証し」をこの手に出来ればと思う。死を迎えるまで二人の顔を見れないのだろうか?
・4歳(恐らく)自宅の庭にあった脚立で遊んでいる時に右手人指し指を切断する。第一のトラウマとなる。
・遠い親戚に預けられる。そこで幼児虐待を受ける。第二のトラウマとなる。
・小学校に入学。と同時に家庭の異常に気付きはじめる。
・精神分裂症の母、入退院を繰り返す。父に連れられ精神病院へ母の見舞いに通う日々が続く。
・小学校低学年。父が突然の失踪。1ヶ月後に帰宅する。
・退院した母親の病状悪化。幻覚・幻聴・徘徊・・・
・初めて父親に連れられてプロレスを観戦。以来現在に至るまでプロレスファンである。(この頃の夢はプロレスラーになる事)
人間とは人を妬み、罵り、恨む醜い生き物だ。プロレスはそんな感情を必要としない。肌と肌を合わせ、お互いの身体を傷つけ合う
そして試合が終わればノーサイド、その潔さが大好きなのだ。
・小学校高学年。父親の仕事の関係で1年で4回の転校。
・小学校低学年より登校拒否。次第に悪化。児童相談所で精神鑑定を受ける(ロールシャッハテストなんてのをやらされた)。トラウマのなせる技。
・中学入学。入学式の帰宅途中リンチに合う(10 vs 1である)。「なまいき」だから、らしい。
・初めて「洋楽」の洗礼を受ける。フォリナーの「アイ・ウォナ・ノウ」に感動する。
・初のライブは「中川勝彦」、初の洋楽ライブは「トンプソン・ツインズ」。この頃から中洲の映画館に1人入り浸る。
・ある日親戚一同が我が家へ。「私達の所でお母さんと一緒に暮らすか、このどうしようもない父親とここで暮らすか今決めなさい」と、迫られる。
結局父親の元へ 残る。この日以来母親には会っていない。
・この頃父親が事業に失敗。連日連夜、借金取りが我が家へ。窓ガラスを叩き割られる始末。。。
・父は家に僕を残し、借金取りを避ける為帰らない日々が。父が電話で注文してくれた出前の定食を1人食べる日々。このまま父に捨てられると思った。
・父帰宅。遂には家にいられず、父と二人の放浪生活。ホームレス同様。野宿も経験。中学生活残り半年で中学からドロップアウト。思い出の品も全て捨て去る。
・「引きこもり」期スタート。10代らしさの全てを奪われたショックから他人と社会を恐れる様になり引きこもる。正気を保たせたのは中学時代に出会ったロックだ った。
・学校に行けない歯がゆさから、図書館通いを始め、読書の毎日。宗教・心理学・政治等。この頃から詩を書きはじめる。
・読書とロックに癒され社会へ、外の世界へ出る勇気が芽生える。初のアルバイトを経験。
・17歳、ロックミュージシャンを志し東京へ乗り込む。刺激の多い街を充分楽しむが、孤独感と現実にぶつかり挫折。1年弱で東京を後にする。
・しばし「引きこもり」再発。再び読書とロックに塗れる毎日。
・19歳、宗教、超心理学に興味を持ちフィールドワークを始める。この頃からフリーライターを目指す。朝日新聞を始め雑誌にも投稿、掲載される。
・22歳、初のバンド結成。数度の練習で解散。
・23歳、精神的に最悪の時期。この頃多くの詩を書く。働く意欲もなくし、人に会うのも恐れるようになる。極限の精神状態で1週間食事を取らず、遂には自らの命 を絶つ決意をする。手首切り1回、首吊り1回・・・全て未遂。今思えば茶番である。
・日々弱りゆく父の姿を見て立ち直る。古着屋、雑貨屋でアルバイトを始めたのを契機にようやく社会と自分との接点を見い出す。これまでになくポジティブにな る。
・初めて文芸誌に詩が3作連続掲載される。23歳で再びバンド結成。
・カートコバーンの死に愕然とする。同士を失う。
・24歳、カートコバーン追悼イベントを主催し300人動員。以来バンド活動を活発に行う。
・26歳、初めて本格的に活動してきたバンド「PRASADA」解散。再び詩や散文を書く毎日。
・27歳、父が亡くなる。人生で最も恐れていた瞬間。父の顔を見たのは死後2日後。第三のトラウマ。
・29歳、「anomie」結成。「Rock&Art Symposium ELEMENTAL」立ち上げ。同級生と14年ぶりの再会。10代への憎悪氷解。
・31歳、DJとして「Rock&Art Symposium ELEMENTAL」再開。
・33歳、ライターとして本格的に活動開始。
第一のトラウマがもたらしたもの・・・無意識に右手を隠す。自分を思い通りに表現出来ない。
第二のトラウマがもたらしたもの・・・他人に対する憎悪感(特に強者に対して)。極度の緊張。人見知り。
第三のトラウマがもたらすもの・・・?まだ未知である。。。
持病・・・気管支喘息、気管支拡張剤による後遺症の動悸、過敏性腸症候群、扁桃腺の腫れ
以下はmixi掲載分の「mixi Version」〜僕はこんなふうに生きてきた〜です
僕は共産党員で活動家、画家、建築デザイナーだった父と
歌人の母との間に生まれました
結婚後19年、父が45歳、母が39歳の時に生まれただけあって溺愛されて育ちました
僕の誕生後、母親が現在で言う統合失調症(精神分裂症)を発症(陽性)。
母が精神病院の入退院を繰り返していた為、幼年期のほとんどを父と過ごしました
母は退院して来てすぐは普通の母親と何ら変わらないのですが
しばらくすると幻聴、幻覚、徘徊等の症状を見せ始めます。
朝、起きると母親の姿が見当たらず、警察に保護されて帰って
来る事も珍しくありません
病院で処方された薬を飲まなくなるからです。。。
精神病院に父と何度お見舞いに行ったでしょうか
あの時の母親の顔を思い出すと、胸が痛みます
僕の顔を見た途端、美しい笑顔をたたえます
精神を病んでいる人だなんて思えません
父は母が入院中は幼い僕の面倒を見なければならず
建築関係の仕事をしていた父は僕を現場に連れて行きました
夜中の突貫工事の最中、カーペットに包まれ寝ていた事を
思い出します
そうやって父の仕事が終わるのを待っていました
経営者だった父は夜になると接待だってあります
そんな時は行きつけのスナック等に僕を預けていたそうで
「お前はスナックのママさん達に育てられたようなものだ」と
言っていました
ある時期、親戚に預けられいたのですが、そこでは招かれざる客
だったようで、虐め、暴力に遭いました
酷く殴られた記憶が有ります
幼稚園時代でした、ショッキングな出来事がありました
建築デザイン、施行の仕事を営んでいた我が家には
現場で使用する機具が庭に多く積み上げてありました
その中の脚立を、遊び道具にして登って遊んでいたところ
ロックが外れ、接合部に人差し指を挟み、切断してしまいました
あの時の痛みは今でも鮮烈に覚えています
父は泣き叫ぶ僕を見つけ、庭に転がった指をティッシュに包み
僕を抱き上げ病院へと急ぎました
父は手術を終えた僕に笑顔で「すぐに生えて来るから大丈夫!」
騙されてしまいました(笑)
周囲の目があるというので、病院がゴム製の指を作ってくれました
しかし、窮屈で痛くて、とても使えたものではありません
それから僕は人目が怖く、人差し指の無い(第一関節のみ)手を
握り締め隠す様になりました
小学校の入学式に向かう途中、あまりの緊張で「おもらし、、、」
指のこともあり、コンプレックスの固まりの小学校生活
4年生の頃より、何事にも無気力になり登校拒否を繰り返しました
他の生徒の目が過剰に気になり、殻に籠りがちになりました
児童相談所に連れて行かれ、精神鑑定、ロールシャッハテスト等も受けたり、、、
教室に入れず保健室で授業を受けたりしていました
小学校時代このようなこともありました
父が一ヶ月失踪したのです
仕事のトラブルなのか、共産党に活動の為なのか
愛人でも出来たのか、子供だった僕には知る由も有りませんが
病気の母と二人、不安な1ヶ月間を送りました
小学校を4度転校
中学に入る頃には気持ちにも余裕が出来、友人も多くなりましたが
やはり中学の入学式には10人から集団リンチに遭いました
「入学式」に因縁のある僕です。。。
この頃より母の症状も重くなり、友達が家に遊びに来ると
母の奇行に気付き、学校でも中傷を受けました
中傷されるのは、分裂症の母親のせいだ!
何の罪も無い母親を恨む事もありました
さらに父親の会社も倒産、新しく始めた事業も失敗
母親側の親戚も、何もかも無くした父に病気の母と僕を養って
いく資格が無いと断罪し「母親と一緒に私達と暮らすか、この
父親と暮らすか、今ここで決めなさい」と問うて来ました
僕は父親を選びました
入院がちだった母親より、ずっと一緒にいた父親を選んだのです
この日より、母親には会っていません。。。
父との生活が始まりました
事業に失敗し、金銭トラブルを多く抱えていた父の元には
借金取りが多くやって来ました
電気を消した暗い部屋で一人小さくなっていました
毎夜、ドアを蹴るけたたましい音が響き、窓ガラスを叩き割られた
事もありました
父は遂に家に帰って来なくなり、僕は父がどこからか注文して
くれる出前の定食で食い繋ぐ毎日でした
この頃、僕はまだ中学2年です。。。
この出前が途絶えた時、僕は父に捨てられるんだと思っていました
ある日、父が帰って来ました
二人で着の身着のまま外に出て、それから家に帰らなくなりました
いえ、帰れないのです
しかし、そうした環境より父と一緒にいられる喜びを噛み締めました
1度だけですが、二人で公園に泊まったこともありました。。。
ホントにホームレスですね。。。
その後父の知り合いを頼って某所へ腰を落ち着けました
ある古くて小さな旅館に1年近くいたでしょうか、、、
旅館代は父の知り合いが払ってくれたり、父が絵を描いたりして
払っていたようです
思い出の品も楽しいはずの学校生活も10代らしさの全てを
失われ、絶望の淵に立った僕は以来約7年間引きこもりに。。。
他者への恐怖感、憎悪の念はこの頃培われてしまいました
中学時代に出会ったROCKが僕の正気を保たせていました
ROCKだけが僕の心を潤してくれました
父の知り合いが暴力団にお金を借り逃げるという事があり
あの頃を思い起こさせる暴力団の追い込みがかかりました
僕自身が拉致されるといった事も起こりました
まったく安定しない人生です
引きこもり働く事の出来ない僕は、父の何の助けにもなれず
自己嫌悪と絶望感に苛まれ、何度か死を決意しました
ドアノブに紐を巻き付け、そこに自分の首を入れました
手首を切った事もあります
でも、こうやって生きています
死にきれなかったのです。。。
父と二人、生活保護を受けていたのですが、そのお金も底を突き
1週間何も食べなかったといった事もありました
思えばこの頃が最悪の時代です
老齢と生活苦で日々弱り行く父を、傍らで見ていた僕は
何か吹っ切れた気持ちになりました
何がきっかけかは分かりませんが、僕は腰を入れて働く決意をします
父を稼いだお金で食事に連れて行き、父が人目も構わずに泣いた
のを思い出します
僕もそれを見て泣きました。。。
働く事によって社会との接点を見いだした僕は
人生をクリエイトして行く事の楽しみを知りました
そんな時、父が亡くなりました
僕が父に会ったのは葬儀場の霊安室で、死後2日後でした
父の死を看取れなかった事で、僕は未だに自分を責める毎日です
母の精神分裂という病気
親戚からの幼児虐待
指の切断
コンプレックス
登校拒否
極貧生活
放浪
父の死
無気力
喪失感
絶望
自己嫌悪
恐怖
憎悪
挫折
これらが今の僕を形成しています
永遠に社会に適合出来ない
自分と向き合って行かなければなりません
とても、とても
「生きづらい」のです
しかし、この過去を決して消し去りたいとは
思っていません
過去を足枷にするつもりもありません
僕はこの過去と共に生きて行くのです